昭和44年03月30日 朝の御理解



 御理解 第42節
 「これほど信心するのに、どうしてこういうことが、できるであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らぬからじゃと思い、一心に信心していけば、そこからおかげが受けられる」

 ここの42節を頂いて、こういうおかげを頂く為に、この様な御理解を下さってあるんだと。是程信心するのにと言うのではなくて、この様な信心にどうしてこの様なおかげが、受けられるのであろうかと、感涙にむせばせて頂ける様なおかげを頂く為に、この42節の御理解を下さっておるんだと思うんですね。真実ここには、これ程信心するのにと、このくらいな信心、信心も出来ませんのに、
 この様なおかげを頂いてと、感涙にむせぶほどのおかげを頂く為に、この42節が分らなければいけん所です。教祖様の御述懐の言葉の中に、その所が御座いますね。どうしてこの様な事が出来たであろうかと、教祖様が、または天地の親神様が、感慨深かげに感嘆の声を上げておられる。教祖様が自分が物心おつきになってから、この事を天地の親神様から書き留めておけといわゆる、教祖の手記ですね手記自分の歩かれた。
 歩いて来られた何十年の事を、ずぅっと細々と神様のお指図を受けながら、また自分の思いを、思い出されるままに書き綴られた。そしてある所まで書かれたときにです、それこそ歌人なら歌う、歌でも詠もうというて、感涙にむせんでおられますね。もし是が歌でも作りきるならば、素晴らしい歌にもなろうと、絵描きであるならば、これが絵にでもなろうと。どうしてこの様な事が出来たであろうかと。
 自分のこの様な事が出来たであろうとかと、自分の過去というものを振りかえっておいでられてです。とてもとても、人間技とは思えないが、どうしてこの様な有難いお道が、開けて来たのであろうかと、その感涙にむせんでおられます。すると天地の親神様がですね、その方金光大神が悲しいいのではない、悲しいと云う事はもう、悲しいまでの有難さという言葉ですね。
 金光大神が悲しいいのではない、神が悲しいのじゃとという意味の事を言うておられます。神が悲しいと、神が悲しい程に有難いのじゃと言うておられる。金光大神が有難いのじゃない、そこでまぁ教祖様もそこの所を、正確な言葉ではないですから、是は御伝記を拝唱さして貰わなければいけませんね。そういう意味の事を言うとられます。是は大変有名というか有難い所ですから、皆さんよくお読みになるといいですね。
 そこでもっとさがってです、いうなら私のこと、私でも時々それを思う事がある。どうして、この様な有難い事になって来ただろうかと、私は思うんです。信心もでけんのに、是というてその器量人でもない私。いえば心から何にも出来ない私。それが、この様にして段々助かって来られる様になり、この様な事が、実際に日々できておるということが、そういう生きた働きがです。 
 このお広前に展開してきた、展開してきつつある。どうしてこう言う様な事が出来たであろうかと、私自身感涙にむせばなければおられない思いであります。おそらく天地の親神様もです、私が感涙にむせんでおる時に、大坪総一郎の感涙ではない、神様もまた感涙を模様しておられる時だと思うんです。神様もまた本当に有難い事じゃというて、有難涙をいうならばこぼして喜んでおられる時だと思うんです。
 皆さんでもです。信心も出来ませんのに、信心の年数もまだ、大した事は御座いませんのに、どうしてこう言う様な事に成って来たでしょうかねと、家族の者が話し合えれると云う事、なんと是は有難い事に成って来たでしょうかねと、話し合えれる様なおかげ。そういうおかげを話し合えれる、その事に感涙もよおす程しのおかげを受ける時に、天地の親神様が、ようもようもここまでおかげを受けてくれたのと言うて、喜んで下さっておる時だと、私は思うんです。
 だから、そういうおかげをですね、頂かせて頂く為に、そういうおかげを下さる事の為に、この御理解を下さっておると思うんです。そこで是程信心するのにというのではなくて、これくらいの信心にどうしてこの様な、有難い事に成って来ただろうかというおかげを頂く為にです、ここの所はこう言う風に、思わんで済む、言わんで済むおかげ。こがしこ信心するとに、どうしてこんな事が起こって来るじゃろうかと。
 とても私大概弾んで見たばってんか、おかげは頂ききらんやった、なんて言う様な事を、言わんで済む信心。そこん所をこれはまだ信心が足らぬからじゃと思い、一心に信心をしていけば、そこからおかげが受けられると、そこからおかげが受けられるおかげなんだ。そこからの展開そこからのおかげの展開が、信心もでけんのにどうしてこの様な事が、出来たであろうかと、感涙にむせぶ程のおかげになって来ると思うのです。
 御神訓の中に信心の心得の中にですね、中に用心は前から倒れぬうちの杖ぞ、という御教えがあります用心は前から倒れぬ内の杖ぞと。是はね信心をしっかりしておればです信心の杖を付いておればです困った事にはならんぞと倒れはせんぞ、転びはせんぞ、と云う事じゃないですね。それは日々の自然の働きと成り行きとの対決においてです、私共がね、それはどの様な事があるかも知れんどの様な雨や風が吹くか分からん。
 倒れぬ内の杖ぞ、杖さえついとけば、雨は降らんぞ、風は吹かんぞと、地震はないぞといった意味じゃないです。どの様な事があるか分からんけれども、そういう時にです、そういう自然の働きとの対決。私は成り行き大切にというがですね、そのどういう成り行きになって参りましても、雲行きになって参り間してもです、それを元気で受ける心、それを有難く受けきる心、是が倒れん心なんです。
 倒れる前に杖をついときゃ、倒れる前にちゃんと信心をしておきゃ、失敗はせんぞ落第はせんぞ、病気はせんぞ、そういう意味ではない。病気もあろう落第もあろう失敗もあろう、けれどもその事にへこたれないと云う事なんです。へこたれないどころか、それをむしろ元気な心で受けていけれると云う事。いやそれをむしろ有難しと合掌して受けれると云う事なんだ。用心は前から倒れぬうちの杖ぞ、そういう信心。
 神を杖につけば楽じゃと仰る。神を杖につけば楽じゃと言えれる程の、信心を神様を頂いとかなければならんと云う事である。どの様に心が滅入って居る時でも、どの様に情けない思いをする時でも、ここの所を有難く受けられる、是は私の体験の中にはもう、数限りなくありますけれども何時も、この話しを代表の様にして話すんですけれどもです。私が借金に追い回されておる時。
 今日も又その借金の断りに行かなならんという時、丁度大城の停留所で、福岡に借金の断りに行こうと、もう福岡の方に足が向かんぐらいに、行こうごとなか時けれども神様は行けと仰るから、やらして頂きよったらあそこの停留所で、善導寺の小川という酒屋の桶屋さんですが、桶屋さんと会うた。一杯機嫌で大坪さんどこ行きよなさるかと、はぁちょっとそこまでと、言うて話しをしておる間に、電車が来る間に小川さんが言われる事、私昨日御井町に照国が来た時に、あの相撲を見に行ったと。
 という話しからです、とにかく相撲取りの弟子にどんやる親の気持ちが知れんという話しをされた、それはちょいと大坪さん、見られたもんじゃなかばの、とにかく土俵の上でもう、這いも立ちもしきらんごとなるまで、その鍛える。それでもどうも出来んから、ごそごそ土俵の外に出て行きよると、又襟髪ひっつかまえて、襟髪っちゅうか、そのふんどし掴まえといて、引き上げといて叩くという。もう相撲じゃなかち。
 私その話しを聞いた時ですね、私は心ん中に、それこそ電撃の様にね、有難いものが閃いて来たんです。果たしてこの師匠がですね、この弟子を鍛える時にです、「憎くしてこたえんから、べんぷ(ほっぺた)はじきよるとじゃろうか。憎くしてこたえんから鍛えよるじゃろうか。そうじゃないって、こりゃあものになるぞ、こりゃあ末は横綱か大関かというくらいな、その師匠の気持ちがあるからこそ。
 もう這いも立ちもしきらんごたるとを、引き上げちゃ突っ転がし引き上げちゃ叩きしておるとじゃないかと、もう私こそ末は横綱か大関かという神様の目どがついておるからこそ、白羽の矢を立てられておるからこそ、神様がこの様にして私を鍛えて下さるんだと思ったら、その事が有難うして有難うして堪らんじゃった。何時もはもう本当に足が重うて借金の断りに行かれなかったけれども。
 それこそ意気揚々としてやるせらして頂いた。その借金の断りを境にです、もう大坪さん来て貰わんでんよか、是はもうあんたにあげる。あんたが払える時払いなさいと言う様な、言わばおかげを頂いた。それから十年後でしょうか、十年十何年後にお払いさして頂ましたがね、その様にです、例えば信心しとって、どうしてこげな貧乏せなんんならんじゃろうか、と云う事ではなくてです。
 神様の期待があるからこそ、神様の願いがかけられておるからこそ、神様この様にして鍛うて下さるんだと思うたらです、もうその事が有難うして、有難うして堪えんじゃった。してみると、元気な心で受けるとか、ではないでしょうが。もう有難うしてそこを受け抜いて行っている訳なんです。そこに私共が神様が私に願いをかけて御座る。そういう私は頂き方がですね、まだ信心が足らんと思い、一心に信心して行けば、と言う所よりもです、もう一つ頂き方がある。是よりかもっと素晴らしい頂き方がある。
 是は信心が足らんけん、こげん難儀せなんとじゃろうと、言うて行く様な事じゃない。その事が、これは神様が私に期待があるからこそ、この様にして鍛えて下さるんだという、頂き方なんだ。私はね、そう言う様な頂き方をして来たからです。今日どうしてこの様な事になって来たであろうかと、どうしてこの様なおかげが受けられる事であろうかと、信心も出来んのにと感涙にむせぶ程しのおかげが、日々ここのお広前に展開しておるんだと、私は思います。
 これ程信心するのに、どうしてこう云う事が出来たであろうか、と是はもう信心は止まっておると云う事は、もう信心が死んでおると云う事ですよ。枯れておると云う事ですよ。死んだものから伸びるはずがない。枯れておるから芽が出る筈はないでしょうが、お互い死んだ信心しよる者がどれくらいおるか分からん。もう心が枯れ果てておる様な信心、それどもやっぱり神様に毎日参って、縋って拝んでおるという人もどれくらい多いか分からん。何かあるともうすぐ意気消沈する。もう心が暗くなる。
 もう是はすでに、死にかかってあるのであり、枯れかかっておるのであると、悟らして頂いて、その様な例えば節に直面した時でも、用心は前から、倒れぬ先の杖ぞと仰る程しのおかげ。そういう時にもへこたれんで済むだけの、生き生きとした生きた信心を頂いておかなければならんと云う事です。一心に信心していけば、そこからおかげが受けられる、と最後に結んでおられます、そこからの展開。
 そこからのおかげ。そこん所が大事なのです。もうそこで一歩でもぐずぐずしたらもう、そういうそれこそ感涙にむせぶ程しのおかげになってこない。そこからの展開を求めての信心。それを私は今日42節の中から、只今の様にね、是はまだ信心が足りぬからじゃというよりか、もうひとつです、例えばそう言う様な時に、是は神様が私に期待があるからこそ、私に本当の力を付けて下さろうとするからこそ。
 この様な事に、この様な結果になっておるんだと、分からして頂いたその事が有難うなる。叩かれながらも、神様有難う御座いますと言うていけれる。有難く進んでいけれる、どの様な厳しい自然との対決においてもです、この生き方をもってするならです、今日の信心も出来んのにこの様なおかげを頂いて勿体無し、有り難いと、感涙にむせぶ程の、おかげがそこから展開して来る事を、私は確信いたします。
   どうぞ。